【読書感想文】柳美里『JR上野駅公園口』

 

https://www.amazon.co.jp/JR上野駅公園口-河出文庫-柳-美里/dp/4309415083

 

読みました。

 

あらすじ

一九三三年、私は「天皇」と同じ日に生まれた東京オリンピックの前年、男は出稼ぎのために上野駅に降り立った。そして男は彷徨い続ける、生者と死者が共存するこの国を。高度経済成長期の中、その象徴ともいえる「上野」を舞台に、福島県相馬郡(現・南相馬市)出身の一人の男の生涯を通じて描かれる死者への祈り、そして日本の光と闇。「帰る場所を失くしてしまったすべての人たち」へ柳美里が贈る傑作小説。

 

 

 

 

ホームレスという言葉を聞いて、あなたはどんな印象を抱くだろう。

家がない、貧乏、汚い、可愛そう…etc

それなりに家があって、家族や近親者との繋がりがあって、衣食住が満ち足りていて。そういう生活を送る人はきっと、ホームレスというと、何かそれは自分の生活とは切り離された存在のように思えるのではないだろうか。

 

ここでは敢えて、普通という言葉を使いたくない。普通の基準は人それぞれで、それこそ人の数だけ普通の定義がある。で、ありながら、人は己の普通をいとも簡単に他者へ強要する。その暴力性に心を打ち砕かれ、辛い気持ちになることがしばしばあった。だからせめてもの抵抗として、わたしは普通という言葉を避けるようになっている。

 

 

話を戻す。

幼少期、中部地方の山あいの町で育ったわたしには、ホームレスは無縁の存在であった。なにせ外気温が低い。家を持たず、屋外で寝食をするなど不可能な環境である。しかし、田舎に貧困がないわけはない。むしろ、田舎という環境だからこそ、貧困へ陥るまでの道のりは容易く、陥ってしまったが最後、這い上がるのは至難の技といえよう。ノンフィクションライターの鈴木大介さんが書いた『最貧困女子』という著書の中で、貧困を誘発する3つの無縁が紹介されている。「家族の無縁・地域の無縁・制度の無縁」だ。田舎という狭小なコミュニティで、これらの縁を失った場合、もはやこれ以上、その場に留まるのは難しいのかもしれない。そうして、みんな、高速バスに乗れば2時間で辿り着く東京のような大都市へと流れ着くのかもしれない。

 

東京の一番最初の記憶は、灰色の新宿駅とおじさんの痰だった。両親に連れられて、初めて東京へ行った日、お祭りのような新宿駅の人混みを歩いていた。お祭りなのに誰も笑っていないし、話もしない。ああ、これがテレビの中で見ていた東京か。もとより都会の喧騒を華やかさと認識し、憧れてすらいたわたしであったので、驚愕したもののすぐに享受したのを覚えている。しかし次の瞬間、信じられない光景を目の当たりにする。新宿駅のコンコースを通り過ぎたおじさんが、「ぺっ」と床に痰を吐き出した。え?ここ、屋内だよ?お家の中と一緒だよ?

信じられなくて、手を繋いでいた母に素直に目の前で起きた事実を話した。母は笑ってやり過ごした。郷里についた後、その出来事を祖父に話した。祖父はもともと東京で生まれ、早稲田大学へ入学したが、大祖父が事業に失敗したのをきっかけに今の地に移り住んだ。祖父の葬儀で経をあげた寺の住職が「あの人は東京の人で、学もあったかた話が知的で面白かった」と話していたのも記憶に新しい。

おじさんが床に痰を吐き出した話をすると、祖父は笑いながら、「そんなことを言ったら、東京にはダンボールで家を作って公園や駅の周りで生活している人だっているんだよ」と言った。それが生まれて初めて知ったホームレスの存在だった。それには何か、汚いものを一括りにするような印象を受けた。

 

思い返すと、東京の駅や公園には不自然にダンボールやビニールシートが積み重なっていた。それらは単に整理されて積み上げられているのではなく、三角や四角の立体構造をとりながら、不自然な形で存在していた。周りの華やかさに気を取られ、あまり認識していなかったが、幼いわたしはあの子どもの工作を大きくしたような物体の中に、自分と同じ人間が生活していたという事実を知った。知ったけど、「それが都会か」と妙に納得もして、それ以上のことは何も考えなかった。幼いながらもこの時すでに、彼らと自分の世界とを断絶して捉えていたのだろう。

 

それから数年後、あれはたぶん中学生の頃だったと思う。夕方のニュースで、ホームレスの特集をやっていた。取材班が上野かどこかのホームレスに声をかけ、その人がもともと住んでいた場所へ連れて行く、というような企画であった。先日、とあるwebメディアでホームレスの生活を取材し、社会背景を省いて生活そのものだけをpickupした記事が掲載され、炎上した一件を思い出す。おそらく細かな配慮に未熟さはあったのかもしれないか、それに比べるとあの時わたしが見た特集はいくらか社会に対してのメッセージが色濃く出ていたようにも思う。

ニュースを見ていると、60代か70代の男性が、「妻の墓参りにいきたい」と話していた。どういう経緯で生活を路上に移したのか、どんな人生を歩んできたのかは古い記憶ゆ曖昧ではあるが、確かに覚えているのは、その男性の妻が眠る墓が、父方の祖父と同じ墓地に存在していた、ということであった。

先述した東京生まれの祖父は母方の祖父であり、父の家系は古くから地元に根付いた家柄であった。どういう宗教の違いかはわからないが、父方の祖父は土葬であった。まだ4歳か5歳のころ、文字通り人ひとり埋められそうな大きな穴が掘られ、その中心に父方の祖父が入った棺が置かれ、ゆっくりと土をかけられていった光景は未だに記憶に残っている。

テレビ画面には、住み慣れた町の風景が映っていた。男性は墓の前で静かに手を合わせると「懐かしい」とか「嬉しい」とかそういった類の言葉を話していたような気がする。父方の祖父の墓地は山の中腹に存在しており、墓参りをするにはごく軽い登山をしなくてはならない。最近では石造りのものも増えてはいるが、未だに盛り土のままとなっている墓も多く、父方の祖父も例に漏れず盛られた土の下に眠っている。男性が手を合わせていたのが、墓石だったか盛り土だったかは、正直よく覚えていない。

兎にも角にもこの一件は、ホームレスという存在をぐっと身近なものにした。何年か経って東京で暮らすようになって、頻繁に町で彼ら彼女らの存在を目にするようになった今よりも、あの時の方がずっと強く親近感を抱いていたように思う。同じ町で生まれ、育った人が、あの中の誰かなのかもしれない。実はこの少し後、もっとずっとリアルにそういった感情を抱くことになるのだが、ここでは割愛する。

 

彼らは落ちてしまったのだろうか。前置きが随分と長くなってしまったが、『JR上野駅公園口』を読んでいて、ずっとその疑問が頭を離れなかった。

「落ちた」のか、「はみ出した」のか。確かなのは、住居(住所)があるかないかというその点で、明確に区切れることであろうか。否、区切ろうと思えばいくらでも区切れるのかもしれない。仕事の有無、収入の有無、家族の有無etc…

一度、区切ってしまったら、目を背けるのは容易い。現にわたしも、ホームレスに対して明確なボーダーラインを引いていたように思う。一度、線を引くと、向こう側の存在は全て同じに見える。彼ら彼女らは性別や年齢でこそパターンがあるにしろ、どこで生まれどんな生活をして、どういったきっかけで路上で暮らすこととなったのか、些細なディティールにまで気を配るような余裕はない。そもそも他者の生い立ちを逐一追いかけるほど人間は暇ではないのだ。それが線の向こう側の人ならなおさらだし、向こう側にいる人々にとってもそれは同じであろう。ただ、本当になど存在するのだろうか。それは常に考えているには少々重すぎるのかもしれないが、時折目に触れられるよう頭の片隅に置いておくのはとても有意味であるように思う。

 

 

本書でとても印象深かったのは、主人公と天皇の対比だ。ここでの天皇はまさしく『象徴』として描かれている。同じ人間でありながら、天皇制という日本を象徴するシステムに縛られ続ける主人公。その姿には悲哀が溢れ、陽と隠が見事なまでに克明に隔たれている。驚くべきは、それが直接的な言葉で表現されるのではなく、ストーリーの展開によって読者に知らしめられる点であろう。柳美里という作家の卓越した才能を垣間見る。

本書に置いて、天皇は幾度となくとして存在する。不遇な人生を強いられる主人公の悲哀が、「食べるものにも住むところにも困らない」人が知らない世界の惨さを浮き彫りにする。

でも、天皇家にだって大変なことはあると思う。文にするとすごく稚拙な感じがして、書いた自分でも驚いたが、いや最近のニュースを見たらすごく大変そうだ。好きな男と結婚しようとしただけで、相手の生い立ちから家族関係やら、ひいては嘘か誠かわからないような事象までを週刊誌に書き連ねられ、日本中でああだこうだと批評される。不倫も浮気もしていないのに、愛する人の家族まで壊しかけてしまうのだ。

それでも、明日の生活がどうなるかわからない不安に比べればマシだという人もいるのかもしれない。衣食住が足りていれば、その程度の不幸は歯牙にも掛けないのかもしれない。住まいがなく、家族を失い、地域の縁とも切れかかった人から見れば、それは取るに足りないことなのかもしれない。

 

だからこそ、強く思う。普通なんてないのだ。

誰かにとっての苦しみは、誰かにとっての幸せだ。コップに水が入っているのを見て、多いと感じる人もいれば少ないと思う人もいる。暑いのが好きな人も、寒いのが好きな人も、どちらも極端でなければ過ごしやすいと思う人もいる。幸せの定義もまた、人の数だけあるように思う。

 

本書の主人公は、貧困ゆえにホームレスになったわけではない。自身の存在にいたたまれなくなった故、故郷を飛び出して上野の路上に住まいを移した。

なぜ、そうなってしまったのか。いや、なってしまったという否定的な表現が適切かさえもよくわからない。確かなのは、そういった彼ら彼女らの存在と線を引き、どこか違う生命体のような目を向けていた幼少の自分は、少し間違っていたように思えることだと思う。同じ人間なのだ。

 

人生はつづいている。(中略)誰もが、たった一人で抱え切れないほど膨大な時間を抱えて、生きて、死ぬ──

 

こんなに当たり前のことを、こんなに美しい文章で書けるのか、と感動した。なぜかはわからないが、この一文をとても美しいと思ったのだ。それは、とても意味があるように感じる。

 

何かのテレビ番組で、社会派のタレントが「平和とは、知らないことだ」と叫んでいた。確かに、知らないときのわたしは平和だった。でも、知ってしまうと、なんだか重みを感じられる。苦しい気持ちや悲しい気持ちが重みになって、少しだけ優しくなれるような気がする。何ができるわけではないけど、むやみに正義を振りかざすわけではなく、少し離れたところから眺めていたいと思う。そうして考えて発信したり行動したりすることは、少し優しい気がするのだ。